金谷文則先生 退官によせて
私が医者になったのは昭和も終わりに近づいた頃である。茨木名誉教授がまだ教授としてご活躍されていた時で、医学部卒業後即入局し、整形外科医としてのキャリアをスタートしたのである。ローテーションといっても、麻酔科を回るくらいで、現在のように体系化された研修医制度はまだなかった。当時、医療現場で医者は、なにか特別な存在であり、製薬会社の接待や、文献の依頼は当たり前、患者との関係でも、“患者”に対して医者は“お医者様”であった。しかしその頃から、新しい風が吹き始めていた。まだそよ風ではあったが、右も左もわからない若い研修医には心地よく、そして少し冷たかった。患者を中心にした医療サービス、インフォームドコンセント、個人的経験に重心を置いた技術・知識の伝授から、EBMを土台にしたチーム医療。乗松先生が香川医科大学(現香川大学医学部)の整形外科教授に就任し医局を出られた後、後任として赴任された金谷先生は、その風を身に纏っていた。私は茨木先生の退官前に医局を離れたため、教授としての金谷先生の活躍は、学外の徒としての知識しかないが、当初は「教授らしくない教授」として尊敬の意を抱いていた。しかし今再考すると、金谷先生は現代の教授としての資質を備え、それを時代の要請に沿って、期待通りに開花させ、琉球大学整形外科学教室の発展に寄与したと評価できるのではないだろうか。(私ごときが“評価”とはおこがましくて失礼だと思うが、お許し願いたい)沖縄県の整形外科の医療水準の底上げ、先進技術の向上、後進の育成。二代目のジンクスが、杞憂に終わったことを、素直に喜びたい。30年前、私が感じたそよ風は、もう吹いてはいない。だが、それは私たちを取り巻く空気として、厳然と存在しその価値は微動だにしない。金谷先生が沖縄で過ごした年月を、自分の人生の中で切り取ってみる。なしえたことと、なすべきことが、交差、交錯し、立ちすくむ。しかし、私は新たな一歩を踏み出すだろう。今年、新しく吹き始める風に押されて。
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